図らずして橋本弁護士が、光市母子殺人事件の弁護団から「懲戒請求を煽って営業妨害をした!」と訴えられている。真っ向から対決するようなので今後どうなるのか興味深い。
さて、もともとのこの事件にかかる議論の一つは、死刑は先進国(欧米)では根絶される方向にあるから、(ましてや成人前の)人間に死刑を適用するのはいかん、というものだった。18歳が未成年かどうかはとりあえず横においておくけど、死刑が先進国で廃止の方向にあるというのは、その言葉から感じる印象ほどに、本当ではない。
まずアメリカでは州ごとにちがう。死刑判決を認め実行しているところもあれば、やらないところもある。つい最近までは死刑モノトリアムという考えのもと、死刑の実行が自粛されてきた。安田弁護士などが死刑廃止の根拠として、このアメリカのモノトリアムを持ち出すことがあるようだが実際には州ごとに死刑にたいする態度は違うので、詭弁っぽい。じっさい、シュワルツネッガー知事は死刑モノトリアムの動きに対峙した時、結局死刑を実行した。わりとつい最近のことだ。
つぎに欧州に目を向けると、欧州(イギリス)では国家が被害者救済措置を準備している。被害者の心情に配慮をしたうえで、死刑を廃止しているという。
肝心の日本はというと、たとえば刑事罰などは加害者(犯人)の社会的復帰を前提に規定されているので、高い再犯率が野放しとなっていたりまた、刑事と民事を別に切り離してしまったので、一つの事件に関して裁判を別々に行わねばならなくなっている。しかも、それぞれの裁判で証拠の引用は許されていないようなので、それぞれの裁判で一から証拠・証人をそろえなければいけい。被害者にとっては、時間も金も精神衛生上もとてつもないコストを強いられるシステムになっている。最近、ある事件に関して刑事と民事で白黒が相反するケースがニュースになっていた。刑事で無罪となったが、民事で有罪となったという。
じつはこの点については、第2次世界大戦まであったシステムの方が理にかなっているらしい。それは、刑事と民事を同時に行うことができ、証拠も引用しあえるものだったという。だから、被害者の時間も金も精神的負担は最小限に抑えられ、そっと事件に向かい合うことができたようだ。(ただ、加害者からすれば、もし冤罪であったばあい、取り返しのつかないケースが予想できる。)
それが完全によいかどうか分からないが、いまの制度のなかから死刑だけを取り出して、廃止か継続かは議論しても良い結果は得られないと思う。
司法制度や背景にある考え方が他の先進国と違うのに、死刑の部分だけを同じにしようと論じるのは片手落ち。片手落ちだと結果はかならず、結局だれかにとって酷く不公平なものになるはずだ。
さてわたしは数年後に導入される陪審員制度に大反対。
社会心理学だかなんだかに「集団的社会では安心は増進するが信頼は崩壊する」ということがあるらしい。安心と信頼が反比例する関係にあることがいまだに理解しがたいが「信頼の構造」という本を読むにつれ、今の世の中と比べると、そんなもんかぁ、と思えてくる。
かつて日本は「村意識」と言われるような和を重んじる社会があった。その社会のなかにいるかぎり安心はもたらされていたはずだ。同時に、よそ者に対してはなみなみならぬ警戒心をもち決して信頼しようなどとは思わなかっただろう。
それが今日、コミュニティの結束が弱くなり「隣は何をする人ぞ」という社会が進んでいる。そしてたしかに社会に安心感がない。
アメリカで暮らしていて常に社会的な不安を抱いていたのだが、それに似たよう感覚を覚える。ただ、アメリカではそれでも心地良く暮らせた。それは、アメリカ人の陽気さとかフランクさだ、と思っていたが、同書を読んで、違うと確信した。
その根拠は、こうだ。日本人はアメリカ人ほと人を信じることができないのだ。人を信頼する技術をもっていないのだそうだ。アメリカ人は確かに自分を陽気に維持しようとする。でも根本には信じあおうとする姿勢がどこかにあったように思う。そしてその信頼をお互いに深めようと努力し続けていた。陽気さやフランクさ、そのための手段の一つであったように思う。
たぶんどちらかといえば日本人はいまだに、結束のつよい社会で安心することを望んでいるが、アメリカのさまざまな美談や成功例に触れるにつれ個人の自由も欲するという矛盾に陥っている。自由を謳歌したいのなら、安心は捨て信頼する技術を磨かねばならない。しかし、日本人には「日本人同士だから」という甘えのもとに、信頼を高めあおうというお互いの努力がみらない気がする。そして、安心感も信頼感もない社会に対峙した人々は、法律とコンプライアンスをよりどころにせざるを得なくなっているように思う。法律という文章とコンプライアンスという建前では信頼は築けず、人々は立ち行かなくなるというのに。そして、同時に自分の感情を他人のそれと比べ、同調できたら爆発させ一時しのぎな満足を得ているように見える。
最近の政府の改革は、集団的社会を崩して競争力を高め、経済成長を続けていくというものだ。集団的社会と決別するなら、国民全員が他人を信頼する技術を磨かなければいけない羽詰った状況にあるのだろうけど、そういう動きが見られない。社会の安心感は喪失するわ、他人を信じる技術を持たない人々が集まったまったら、なんだかおそろしく殺伐とした社会が目に見えるような気がする。
そんな状態に陪審員制度が導入されたら・・・。ほとんどすべての陪審員は、マスコミの論調や感情で人をジャッジするしかない。それっていったい何百年前の未熟な社会へも戻ることになるんだろう。アメリカの裁判好きを冷笑する日本人は多いが、いまのまま陪審員制度が導入されれば、日本でも裁判は増え、そして真実に照らされない感情本位な判決が目白押しとなるのではないかと危惧している。
さて、安田弁護士。以前読んだ安田氏の著書では、真実を明らかにすれば死刑は必ずしも妥当ではないケースがある、じつは死刑廃止云々よりも、真実を明らかにしたいだけなんだ、というのが安田氏の本当の狙いだと説明していたように記憶している。
真実を明るみにして法律に照らして罰するという考えには賛成だが、いまの彼のとっている行動では、その方向には絶対にいかない。彼が本来行動すべき矛先は「はじめから筋書きありき」という批判が高まっている検察に向けられるのが道理だ。また当件にかぎっていえば、加害者が精神発育異常だったとするなら、精神科学や心理学などの世界で研究され将来に向けてのデータとして蓄積・分析されるべきよう行動を取るのが筋に思える。
どうも安田氏の行動は、偏った死刑廃止論を振りかざしているがために、実は異常世界を世間に暴露することで個人的な功名心が満足されてるだけで終わってる。彼の行動(目的と手段を履き違えた行動)は、「村の安心感を捨てきれずにかといって個人主義に必要不可欠な信頼構築の技術を持ってない社会」が、陪審員制度だけを導入したときの恐怖と同じだ。その恐怖とは、感情判決による冤罪増加と真実追究のチャンスの喪失だ。それって、じつは安田弁護士が彼の行動を通じて無くそうとしていることに他ならない。
裁判を利用して、婉曲的かつ、批判の対象(検察)をはっきりさせることなく批判するのは見当違いもはなはだしい。彼が「真実を明らかにする司法制度」を望むのであれば、片手落ちな死刑廃止論をかざして間違った手段=光市母子殺人事件の弁護はただちに止めて、もっと適切な手段の実行に邁進すできじゃないだろうか。
安田氏のような実力者には、検察の問題、被害者救済の国家的なシステムの批判と再構築に集中して欲しい。片手落ちな死刑の廃止を求めたところで、真実に光をあてて罪を裁きたいという氏の目標はいつまでたっても時の流行にのっているだけだし、これからやってくる陪審員制度の下では到底不可能な目標だ。